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伊達政宗と『伊達之都 』

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伊達政宗の「伊達な陣羽織」をモチーフにしたお酒『伊達之都』

大和蔵では400年前に伊達政宗が抱いていた大きな志にインスピレーションを得て、「伊達な陣羽織」をモチーフにしたお酒『伊達之都 純米大吟醸』と『伊達之都 SWEET純米酒』を醸造・販売しています。

高貴な色である紫の薄手の毛織物に、背中の中央には伊達家の「竹に雀」の紋、そして星を表す5色(青、赤、黄、白、黒)の水玉模様が切嵌(きりばめ)された、400年たったいま見てもおしゃれなデザインは、配色共に非常に調和の取れた美しい陣羽織で、今の時代の感覚で見てもとても素晴らしいものといえるでしょう。

現在は勿論、先の世までも受け継がれて行くであろうこの文様を、ラベルデザインのモチーフにしました。現代でも何の違和感もなく、それよりも今までになかった新鮮さを感じていただけるのではないでしょうか。

紫羅背板地五色水玉文様陣羽織

― むらさきらせいたじごしょくみずたまもんようじんばおり ―

伊達政宗の生涯は、戦国時代末期から江戸時代初期にわたっていますが、この時代は南蛮文化の影響を受けて、羅紗(ラシャ)や天鵞絨(ビロード)などの新しい材質や技術を用いたり、デザイン・意匠も凝った服飾が生み出されました。

中でも『紫羅背板五色水玉文様陣羽織』は紫地の羅紗よりも薄地の毛織物である羅背板地に、裾から袖の半ばにかけて大小の五色の水玉を散らしたデザインとなっています。水玉は切嵌(きりばめ)で、まわりをそれぞれと同色の打紐でトリミングしてあります。そして、背には大きく伊達家の家紋である「竹に雀」が金糸で刺繍されています。
形態・縫製などから伊達政宗晩年ころのものと考えられています。

紫羅背板地五色水玉文様陣羽織

伊達之都 純米大吟醸

伊達之都
純米大吟醸

伊達之都 純米大吟醸

酒造好適米、山田錦を贅沢に磨き上げ、じっくりと低温発酵させました。
上品でおだやかな芳香とまろやかな味わいは、南部杜氏が南部流伝承の製法で仕上げた純米大吟醸酒です。

商品の購入はこちらからお願いします。

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伊達之都 SWEET純米酒

伊達之都
SWEET純米酒

伊達之都 SWEET純米酒

口に含むとやさしい甘さとともに軽やかな酸味が膨らみ、果実酒やヨーグルトのような甘酸っぱさが口の中に広がります。
他にはない特徴的な味わいはエスニックや中華などスパイシーな料理と相性がよいです。超甘口でありながらスッキリしたさわやかな味わいが自慢の逸品です。

商品の購入はコストコ店頭にてお願いします。コストコ限定商品です。

COSTCO

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今回は、伊達政宗の歴史を振り返りつつ、『伊達之都 純米大吟醸』と『伊達之都 SWEET純米酒』に込めた想いをお伝えしようと思います。

伊達政宗が海外を見据えた背景

戦国時代、日本人は『大航海時代』と呼ばれる時代を世界と共有していました。
マゼランやコロンブスに負けじと日本人も世界に雄飛しようとしていたのです。
山田長政のシャム(現在のタイ)進出や倭寇(朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人)に代表されるように、当時の日本人は東南アジアを舞台にダイナミックに活動していました。

そうした中、ついにヨーロッパ大陸にまで遠征しようという日本人が現れました。
派遣したのは伊達政宗(1567-1636)、派遣されたのは仙台藩武士の支倉常長(1571-1622)です。

伊達政宗像

伊達政宗像

政宗には天下統一の野望があったと言われていますが、その事業は日本の中央部に突如現れた(太閤記に見るあれよあれよという立身出世は、政宗にしてみれば青天の霹靂であったに違いありません)豊臣秀吉に先を越されてしまいました。

その後天下の実権は徳川家康に移りますが、政宗はなお天下への野望を捨てず、支倉常長をイスパニヤ(現在のスペイン)に派遣、軍事同盟を実現させてヨーロッパとの連合軍を日本に上陸させ徳川幕府を倒そうとしていたという説もあるそうです。
さらには世界貿易立国を果たし、伊達藩領を日本有数の豊かな交易地帯にしようという、他の大名が聞いたら驚愕したであろう構想まで持っていたようです。

つまり伊達政宗と支倉常長は世界貿易によって仙台藩を国際国家に仕立て上げ、富国強兵を図り、本気でイスパニアと組んで徳川幕府を倒すという雄大な構想を描いていたのです。

「見よ!この日本にこれだけ大きな構想を持つことができる人間が他にいるか?! 我々以外にこれを成し遂げられる人間はいるのか?! 」
政宗と常長は大きな声でこう叫びたかったのではないでしょうか。

慶長遣欧使節団 出帆

1613年、支倉常長は前年の渡航の失敗を経た後、いよいよ日本人として初めて自らの手で「サン・ファン・バウティスタ号」という帆船で牡鹿半島の月ノ浦(宮城県石巻市)からヨーロッパへの大航海に乗り出しました。

当時太平洋は荒海として船乗りたちに恐れられ、国内航路は日本海に集中していました(後の樽廻船・菱垣廻船)。
常長は石巻を出て葛飾北斎が描いたような大波をいくつも乗り越えながら太平洋を横断してヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコに到達し、そこからヌエバ・エスパーニャを横断して、さらに大西洋を横断したのです。

この旅程の大変さは、現代の我々が徒歩で世界一周するより大変な(旅行ガイドなどあるはずもない時代だったのです)、想像を絶するものであったに違いありません。

慶長遣欧使節団 航路

慶長遣欧使節団 航路

それほど大きなスケールの『夢』を託されてヨーロッパに渡り、彼の地で数年を過ごした常長、その帰りを待ち続けた政宗。

しかし、政宗の壮大な構想を足元から崩す、鎖国、そしてキリスト教禁止という思いもよらぬ閉ざされた日本が『現実』になってしまったのです。
誰も経験したことがない数々の苦労を乗り越えた英雄・支倉常長、彼が戻れば石巻港では南蛮船や日本の帆船が行き交い、藩内を世界中の人々や豊かな物産が行き交う伊達家の繁栄が実現するはずでした。
日本の運命を変えるほどの雄図は微塵に砕け、自分が見てきたことをただの一言も他の人々に伝えることすら許されない世の中に変わっていたのです。

変えてしまったのは、体制を盤石なものとして整え、その後260年の太平の世を築こうとしていた徳川家でした。
帰国した常長は英雄どころか、誰の目にも触れないよう土深い田舎に身をひそめ、毎日田や畑や山を眺めながら余生2年という短さでこの世を去りました。

「我が生涯は何のためのものであったか?! 」

常長は血の涙を流し、こう慟哭していたに違いありません。

そして政宗は、他の大名たちが想像すらできなかった壮大な構想を胸の奥深くにしまったまま、首(こうべ)を垂れて、徳川の天下を尊ぶという姿勢をとらざるをえませんでした。

伊達政宗の想い

伊達政宗は晩年、『馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして是を如何にせん』という有名な詩を作り、『戦国の英雄』の一人としての自分の一生を静かに振り返りました。

しかし『船上命を燃やし尽くした』常長は何をも書き残すことなく、沈黙させられたままこの世を去りました。
政宗と常長が現実にしようとした壮大なロマンは未完のまま長い眠りにつくことになったのです。

政宗の羽織が現存しますが、そこには政宗がかつて描いた壮麗な夢が抽象化され、そのまま染め抜かれているように見えます。
でもそれほどの夢を、いつまでも眠ったままにしておいてよいのでしょうか?

伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡

伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡

400年の時代を超えた想いをお酒に

『伊達男』政宗の夢、をそのまま描いたかのような羽織をパッケージにあしらったお酒『伊達之都 純米大吟醸』と『伊達之都 SWEET純米酒』は、その思いを込めて、南部流伝承の製法で仕上げた自慢の酒です。

壮大な政宗の夢が400年の間眠り続けていた宮城県黒川郡の大和蔵で、私たちはロマンの炎を心の中にともしながら、政宗とともに『進化する』酒造りに取り組んでいます。 

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